卒業生の声|筑波大学附属聴覚特別支援学校 歯科技工科 

卒業生の声

第10回 桐越 厚 さん(21期生)

1994.3    筑波大学附属聾学校歯科技工科卒業
鶴見大学歯学部歯科技工研修科、歯科医院勤務を経て、2003年に渡米
現在ニュージーランド在住

桐越厚さん

私のhistory ~卒業してからの18年間~

 私は幼稚部から歯科技工科まで合わせて18年間を筑波大学附属聾学校で過ごしました。今は南半球のニュージーランドに暮らし、アットホームなラボでセラミストとして働いています。早いもので間もなく7年目を迎えようとしています。

 筑波大学附属聾学校の歯科技工科を卒業した後、私は鶴見大学歯学部歯科技工研修科で1年間義歯の修行をしました。修了後は附属の先生の紹介で実家近くの歯科医院の院内ラボで7年間勤めました。そこは歯科技工士が私一人。上司もおらず、従って指導してもらえる人もいませんでした。そのため作業はすべて自分一人で考えて進めなければならず大変でした。それでも、せっかく学んだ知識と技術を生かせる仕事に就くことができたのだからと私なりに頑張りました。しかし、勤め始めて6年目頃からでしょうか、このままではテクニックは上達しないし先も見えてこない、もっと技術力を高めるために学びたいと思うようになりました。そして、悩んだ末に一念発起、アメリカに渡りました。

ロスアンジェルスへ

 私が選んだ学校は通称A.I.T.I(Aesthetic and Implant Technology Institute)といって、最新の技工技術が学べる学校でした。どのような学校があるのかは、歯科技工士の情報誌などで探しました。書類選考の結果、運良く合格することができ、それまでお世話になっていた歯科医院を退職しロスアンジェルスに渡りました。2003年のことでした。
 A.I.T.Iには、歯科技工の最先端技術を学びたいという人はもちろんのこと、日本の歯科技工システムのあり方に疑問を抱いて仕事をやめて来た人や、英語を生かした仕事をしたいと考えている人など8名が集まりました。レクチャーは日本人の先生とアメリカ人歯科医師、そしてアメリカで活躍している日本人歯科技工士によって行われました。アメリカ人歯科医師のレクチャーは日本語通訳付きでした。とは言え英語が今ほど分からなかったので初めは大変でした。歯科技工指示書を理解するにはもちろんのことですが、歯科技工の技術を学ぶためにはどうしても英語の力が必要です。ですから、とにかく英和辞典と歯科技工辞書を手がかりに必死に勉強しました。

アメリカでの生活

 生活面ですが、ロスアンジェルスは日本人が多いせいか日系人の店が多く、日本語が通じるので生活に不便はありませんでした。しかし、私は早くアメリカでの生活に慣れたいと思い、日系人の店ではなく、なるべく日本語が通じない店に行くようにしました。散髪もアメリカ人が経営する店を利用しましたし、生活上どうしても必要な車の免許も英語で受験して取りました。運転免許の試験は、日本のように問題が100問もあるわけではなく20問ぐらいなので、本気で勉強すればなんとかなります。周囲の様々な人とのコミュニケーションはボディーランゲージと筆談でとりました。ですから書く力は絶対必要です。
 A.I.T.Iは予定通り1年で卒業しました。そしてシカゴのラボに就職しました。卒業の際、A.I.T.Iからはハワイやロスアンジェルスのラボを紹介されましたが、四季のある場所ということで、インターネットで知ったシカゴのGP Dental Studioというラボにコンタクトをとり、面接を受けて採用してもらいました。

シカゴへ

 ロスアンジェルスからはルート66やそれと並行して走る高速道路を使い、車で4日かけて約6000キロをたった一人で移動しました。途中、インディアンと出会い宿泊を勧められましたが、危険なこともあるので「先を急いでいるから」と断って旅を続けました。何時間運転しても同じ風景がずっと続くので、その時改めてアメリカは広いんだなあと感じました。
 シカゴはそれまでのロスアンジェルスと違い日系人の店などほとんどなく、まさにアメリカでした。しかし、ロスアンジェルスでも体当たりの生活をしていたせいか、引っ越しても問題なくやっていくことができました。

ニュージーランドへ

 シカゴのラボでは2年半位、セラミストとして働きましたが、ビザの関係でアメリカを出国せざるを得ず、退職して日本にもどりました。しかし、自分の中では日本にとどまるつもりはなく、また、海外で仕事をしたいと思っていました。幸いなことに帰国後すぐにニュージーランドのラボが見つかりました。そこから、すぐに面接に来てくれとの連絡を受け、面接のためニュージーランドに飛びました。幸運なことにすぐ採用してもらうことができ今に至っています。
 2年間ワークビザ(労働ビザ)で働き、その後は永住権を獲得することもできたので、今はビザのことで煩わされることもなく、安心して仕事に集中できています。 今 勤めているラボはDSM.LTDといい、私が働き始めた頃はセラミックス(セラミックスクラウン、ブリッジ、インプラント)が主な仕事でしたが、今は不況のためかセラミックスとブリッジの仕事は減っています。そのためセラミックスだけでなく、歯科技工全般を任されています。鶴見大学で学んだ義歯の勉強が今になって役立っていると感じています。
 仕事上の技工指示書は当然英語なのですが今は大体理解できています。ただ、中には読みとれないような英語で指示を書く歯科医師もいて、そういう時はニュージーランド人の歯科技工士に教えてもらっています。しかし、時にはニュージーランド人でさえ読めないこともあり、そういう時は直接電話で聞いてもらっています。

最後に

 そんなこんなで私が日本を出てから2013年の6月でまる10年になりました。よく10年も海外で生活できたものだと今更ながら驚いています。
 附属校で18年、卒業してからは19年と年月が過ぎました。まわりの人にはよく「聴覚に障害があるのに日本語の通じない国で仕事ができるものだ。」と言われます。しかし、ビザの問題を除けばやる気、そして社会的常識と自分に対する厳しさ、それらがあればどこに行っても間違いなくやっていけると私は思っています。
 学生の頃は、何かにつけ"うるさく"、また"厳しく"意見する両親に反感を持ったこともありましたが、今こうして多少の困難には負けないガッツを与えてくれたのはその厳しさのおかげかもしれないと思っています。

(「聴覚障害 Vol.68」2013年8月号より)


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